ゴールデンウィーク、大半事務所には立ち寄って仕事をしていたので連休の長さはあまり実感がないんですが、曜日感覚がほぼゼロです。
自分も含めて日本人は、長くに渡って休むというのが苦手で、それが悪いのかどうかは結論付けるのは難しいけれど、言えるのは休み明けの今日、溜まった仕事がなんだと連休でリフレッシュしたであろう気持ちが瞬時にネガティブ側に触れちゃう人は、いっそ休まないほうがストレスなくていいんじゃない?と思ってしまうね。
そう、自転車に毎日乗っている人が3日乗れないとイライラするのと同じかな。
って、オレ??
現在イライラバタバタしながら連休明けの初日を迎えています。
新車完成
別に令和を待っていたわけではないのですが、今シーズンのロードバイクが到着しました。
既に実績のあるサンレモ76のキャリパーブレーキ仕様です。
コンポはカンパニョーロ・レコード12スピード(機械式)
過去2シーズン使用してきているモデルなので、正直な感想ですが
「いつもどおり」
です。
でも、この何も特別に感じない、「いつも通り」な感覚というのは決して悪いことではなく、むしろいつもと同じ感覚を保持すればいいので、そういう意味で違和感なく移行しています。
違和感とと言うほどではないけれど、今回のモデルはEPS(電気式)を使用せず、トラディッショナルなスタイルの機械式を使用しています。
理由は、コンポの到着時にはまだ12スピードEPSがリリースされていなかったから(笑)
一応PBPまでにもう1台用意する予定ですが、その時にはEPS仕様で組み立てる予定ですが。
普段乗っている2018年モデルとはサドルもハンドルもすべて同じポジションにするだけの琴なので、すごく楽に組みあがりました。
明日はちょっと様子見がてらのロングライド予定です。
平成最後の日
散々「平成最後の」で引っ張っておいて、最終日になってネタ切れです。
まさしく本当の「平成最後の日」なんですが、ありきたりすぎて困っています。
かといって、最終日に何も書かないのは如何なものかという思いも・・・
さてさて・・・
そして平成を振り返るには残り時間1時間半(ってここまで全然最終日用にネタも仕込んでおらず)31年をダイジェストで振り返るには1時間半は短すぎ~~!!
そんな慌ただしい平成最後の日、バイシクルクラブさんの撮影でした。
昨日から続く雨の影響で撮影開始が遅れましたが、無事に終了。
久しぶりに同じ枚方市民の吉見カメラマンとお仕事。
あれ?いつから仕事してないんだっけ?と、平成を振り返る以上に難しい感覚でした(笑)だいたい10年ぶりかな??
不思議なことに撮影してもらっているとき、ふと故高木カメラマンと一緒に撮影していた時のことを思い出しました。
高木さんとの撮影は、家が近所、そして自分の主催するクラブのメンバーと言うこともあり、地元で撮影が多かったです。今日もまさに地元(自宅から6km)。
ライターさんがいてカメラマンさんがいて、という標準的な撮影に対して、高木さんのときはライター兼カメラマン。そして今日の吉見さんも「久しぶりにライターも兼ねているんですよね」と。
そんな撮影も無事終了し、令和最初のバイシクルクラブに掲載されます。
サクッと平成を振り返って想うこと。
平成は災害やいろいろな事件が、とテレビなんかでも取り上げられているけど、自転車に乗ってペダルを漕ぎ続けた人生でここまで来ていると、すべての出来事が自転車とともに刻まれています。
20歳で平成に突入し50歳で去る。節目があまりにもいいタイミング?で、まるで自分のためのような時代の移り変わり。
新しい令和、どんな歴史がやってくるのか。
サクッとですが「さようなら平成」振り返りを写真でまとめました。
シマノ鈴鹿ロードになる前、グリーンピアロードだった頃に招待選手で呼んでもらったときのもの。背中側には当時ボスコで走っていた藤野智一さん。
まだ21歳ぐらい、なので平成2年ぐらいかな??
94年、プロ1年目
色々とありすぎて・・・でもこの94年があったからこそ今がある。
95-96年はイギリスのFSマエストロ。
はっきり言って、こんなでたらめなチーム、国内実業団チームの方が体制ええやんと思うほどのチーム。
けど、このチームでの扱いが、いい意味で一番選手としての人格を作り上げたと思っているし、このチームで走れたことは本当に誇りに思う。
いいチームで走りたければ、自分の力で乗りあがる。
いたってシンプルだという結論に達した。
97年はベルギーのトニステイナー・コルナゴへ移籍
のちのランドバウクレジット・コルナゴ、最終的にクレランになったチームだ。
最初は精神的に厳しいことが多かった。
FSマエストロのとき以上に、ヨーロッパのチームだなと感じることもあったが、それだけ良いことも悪いことも。ヨーロッパの中心で走るということは、すべてを受け入れる、ということをシンプルに考えることだな、と。
「どうでもいいこと」に悩むことはこれ以降減ったように思う。
後ろはベルギーの天才サイクリスト、フランク・ファンデンブルック
しかしこのあと自殺し・・・一緒の時代を駆けたものとして、非常にショックだった。
97年のブリュッセル~インホーイヘム
2人が先行する中での3位争い。
向かい風でやや登り、先行不利。
そこをラスト500mでスプリント開始。で、最後注されて7位に。
当時チームのキャプテンだったホプマンスに
「それでいいんだ、自分を信じろ。このコンディションで誰が500m粘れると思う?あそこしか前が空かなかったんだから仕方ない。これからも自分の力を信じろ」
そう言ってもらえ、プロ時代のターニングポイントだったと言えるレースだ。
99年、念願のツールデフランドル(ロンドファンフラーンデレン)に出場。
日本人初だったが、そんなのはどうでもよかった。
ベルギーのチームでこのレースに選ばれるということがどれだけエグイことかって、87年に渡欧し気づいたから。
もう二度とあの時のような、ポディウムでサインする瞬間に脚を震わすような感覚は来ないだろう。
2001年、チームはランドバウクレジットに変わる。
フランドル、LBLにも出場し、秋のクラシック、ハウトランドではエースナンバーをもらい7位に。グラベル系ではチームでもいつでもレギュラーメンバー、トロブロレオンでは終始先頭グループで展開しデンマークのGPミッドバンクでも先頭グループでレースをリードし、ゴールではジャラベールを撃破した。
この時はなんだか何でもできるような感覚、レースって本当に楽しいと感じていた時だった。
2002年がヨーロッパ最後の年。
自分は石畳やグラベル系、それも風がきついとか雨嵐の方が向いていると自分のキャラが確立した年。秋のプッテカペーレンではボーネンをスプリントで撃破し4位だった。
このフランドル選手権では得意レースで、2000年はチームのエース、ファンハックのために1分先行する逃げグループをほぼ単独で吸収。この頃ブックメーカーの倍率一桁も何度か経験していた。
前を行く選手はマチュー・ヘイマン、のちのパリ~ルーベチャンピオンだ。
でもこの頃、ヘイマンのアタックが石畳だろうと、強烈と感じることはなかったかな。
2003年、活動拠点を日本へ。
栗村監督率いるミヤタスバルへ。
今までの自分の経験を次世代に伝えるために。
ミヤタでの4シーズン、栗村監督やミヤタのチームスタッフには走らせてもらえたことには今でも感謝しかない。
他のチームへコンタクトをとったとき「選手としての価値はありません」という返事だったのだから。
2008年ジャパンカップ
引退の年と言うこともあり、スタート前には多くの人が挨拶に来てくれた。
ミヤタ時代お世話になった栗村監督と。
たった6シーズンしか日本で走っていないにもかかわらず、多くの人に応援してもらった。
ジャパンカップでもたくさんの人の気持ちを追い風に楽しませてもらった。
もう二度とこういう生き方はしないだろうな、と、泣けてきながら古賀志林道を登っていた。
2009年からは自分のチーム「チームマッサ」を結成。
ツールド熊野などでも入賞し、クラブチームとしては唯一と言っていいUCIポイントを獲得するなど注目を浴びてきた。
が、運営していくうちに色々と疑問や葛藤があり、2015年を最後にチームを解散した。
2010年からブルべをはじめ、2011年そして2015年にPBP出場。
ファーストランにこだわり、2015年には43時間23分でフィニッシュ。
また今年もチャレンジするが、どれだけのタイムで走れるのか想像できない。
今50歳を迎えて、現状の最速でゴールできれば、今の自分に勝てるといいなと思っている。そしてそれがどれだけのタイムになるのだろうか・・・
今年シクロクロス世界選手権の日本チーム監督に就任。
今年もフレッシュ完走
人生は、前にしか進まない。
自転車も同じ。
すごくいい思い出とともに走れた最高のコンディションでも、それは過去の話。
良いときもあれば悪いときもある。
今回のフレッシュでは、ことごとく悪いと思えることが続いた。
だけどそれも含めて、今起こっている事実、今はこれがすべて。受け入れるしかない。
落車、自転車破損、パンク・・・
他のメンバーのブレーキでスピードは上がらず、焦りばかりが増えてくる。
人は多くの経験で、多くの引き出しを得られるはずだ。
その引き出しは前に進むときに役立つはずだ。
状況によっては、その場から去ることも必要だろう。
だけど「去る」という行為も、本当は「今」から進んでいるということかもしれない。
いずれにせよ、今この場からどう「進む」のかという引き出しが、時と場合によっては明暗を分けることになるはずだ。
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明日はフレッシュへ
そう言えば昭和から平成はある時突然に起こった。
膨らませている風船が予告もなく突然割れるようなものだろうか。
京都駅烏丸口で号外をもらったような記憶はある。
あの時は一生忘れないであろう一瞬が、ずっと続いていたはずなのに断片的にしか思い出せない。
確かだが・・・いや、もしかすると何かと何かの記憶が繋がってしまって、本当は違うかもしれない。
朝から女の子とデートで映画を見に行こうとなり、河原町ではなくなぜか京都駅で待ち合わせだった。
しかし、結論から言えば来なくて、「フラれた」
昭和、まだ携帯なんてなかった時代。
映画なんて軽く2本ぐらい見られるぐらいの時間を待ち、公衆電話から自宅に電話してようやくつながったときに「ごめんなさい」と言われて切られた。そして途方に暮れて帰宅しようと歩いていた時に目の前で号外とけたたましく声を立てながら、新聞に人々が駆け寄ってざわついていた。